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「恵みの源は、神の愛」

- 2017年11月12日 -

講師:禹 浩鉉 師
聖書箇所 II コリント12:9-10、詩篇29:10-11

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

「主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として
御座に着いておられる。主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。」


 私たちの人生には愛が必要です。その私たちを命がけで愛してくださったのが父なる神であり、イエス・キリストです。イエス様は私たちが父なる神の御元に引寄せられるために、いのちを捨てて死刑となってくださった。そのおかげで私たちは、赦しを受けたのです。

 問題はこの赦しを受けた後、私たちは本当に主のために生きているのかということです。私たちは知らない内に、他の人よりも抜き出て強くなろうと考えて生きています。今日皆さんと一緒にお読みした箇所でパウロは不思議な体験をしたことが書いています。天に昇り、天の様子を見た。人には許されていない事を見聞きしたというのです。そうして地上に戻ってきた時に主はパウロにトゲを与えられたのです。このトゲが取り去られるようにパウロは三回祈ったのです。しかし、その祈りの中でパウロは主から、パウロの弱さの内に主の恵みが現れる事を教えられたというのです。私たちは問題や辛い事が無い方が良い、そういうものが無いという事が祝福されている証なのだと考えます。しかし、神様はあえてパウロを遜らせるためにトゲを与えられたのです。そしてパウロはこのトゲについて神様に対して、「私は弱さを誇る」と応答するように変えられた。パウロの心の中で大きな価値観の変化が起きたのです。競争社会に生きる人々は強いことを誇りとします。しかし、キリストにある御国の生き方は弱さを誇ることができるのです。なぜなら、主の恵みがあるからです。私たちはこの恵みを本当に知っているのでしょうか。私自身の人生を振り返っても、自分は恵みを本当に分かっていない時があったことを思い出します。恵みと甘えを混同して勘違いしていた時があったことを思うのです。

 恵みと甘えを混同している人の特徴の一つは常に受け身で歩んでいるということです。棚からぼた餅が落ちてくるのを待っているような姿勢です。ある意味では主に委ねている事が上手に見えるかもしれない。しかし、私自身がやるべき事をいつまでもやろうとしていない。いよいよ切羽詰まってくるまで積極的に動こうとしないのです。

 その反対で、今度は全てを自分の努力でやろうとしてしまう事もあります。あらゆる事を自分の手でやろうとし、主に委ねないで全てを自分自身の手で行おうとしてしまうのです。私はこの両方を経験していく中で、恵みにすがる事、自分のやるべき事を行う事の大切さを学んできました。しかし、大切な事はこの両方の中にいる人を神様は愛してくださっているという事です。そして全てのクリスチャンたちを主の御心のために用いて、主の栄光を表したいと願っておられるのです。神様は教会に対して福音を証しするという務めを委ねられました。この務めを私たちは聖霊様の助けの中で行っていく必要があります。そのために大切な事は私たち自身が主に仕えていくこと。そして、兄弟姉妹と共に組み合わされて仕えて行く事が大切です。

 パウロはII コリント 12:10の中で、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじているのだと言います。あえて受け入れるのだ。それが主の御心なのだ。なぜなら、自分が弱い時にこそ強いからだというのです。クリスチャン生活の特徴はキリストの十字架を通して逆転の人生を与えられたという事です。だから、私たちが弱い時にも聖霊様が働いてくださった強いと言えるのです。ところが、私たちはこのようなものを受け入れても良いとは思えません。問題や苦痛が来たら、「主よ、私は何か罪を犯してしまったのでしょうか」と尋ねてしまう。そんなものです。しかし、私たちが罪を犯そうが犯すまいがこのような問題は来るのです。今私たちが強いとしても、年を重ねれば弱くなります。

●主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。(詩編 29:10-11)

 私たちがこの世と調子を合わせていると、主が大洪水を起こして、あえて私たちの人生を揺さぶられるのです。そして私たちが本当に主を第一としているのかを問われるのです。

 私の妻が大分前にめまいで三ヶ月寝込んだことがありました。仕事をしながら、子供達の世話もし、家のこともすべてやる中で私の方が疲れ果ててしまいました。「主よ、私の妻はいつ癒されるのでしょうか。妻のために、家族のために私が仕事を辞めるべきか、どうしようか」と主の前で祈り考えました。その時、主は私が妻と結婚した時に「病める時も健やかなる時も、貧しい時も富める時も妻を愛し続ける」と誓約を交わした事を思い出したのです。その時わたしはすぐに主の前に悔い改めました。そして主の前に「主よ、私に妻を愛し続ける力をください」と祈り始めたのです。これが恵みに生きるという事です。私たちは自分に出来るか、出来ないかという基準で何かをするかどうかを決めようとします。しかし、そうではなく、たとえそれが出来ないと思ってもそれをやろうとするのです。自分の力でそれをしようとするのではありません。主に祈って、聖霊様の助けに縋って、私たちが為すべき事をやってみるのです。その時に主は私たちに力を与えてくださいます。そして、私たちは問題を乗り越え、その問題に勝利することが出来るのです。

 何もせずに手をこまねいて受け身でいるだけでは勝利を得る事はできません。問題を乗り越えることも出来ません。そのために私たちは、例え自分には出来ないと思えたとしても、自分のやるべき事を主に祈って、聖霊様の助けが来ることを信じて行うのです。その時に私たちは主からの恵みを体験することが出来ます。だから弱さの中であきらめてしまうのではなく、また自分の力で頑張ろうとするのでもなく、主に祈っていきましょう。主に縋って前に進んでいきましょう。

2017年12月06日更新

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