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「主と共に生きる人は―主に心を向ける習慣が必要」

- 2017年10月15日 -

講師:水野 明廣 師
聖書箇所 マタイ1:22

「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」

 私たちクリスチャンが持っている違いは、主が私たちと共にいてくださることです。なぜなら神様ご自身が何よりも、人間である私たちと一緒に居ることを願っておられたからです。

●主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。(I テサロニケ 5:10)

 主が私たちと共に居るために私たちのために死なれたのです。イエス様が死んでくださったのは、私たちが主なる神様と一緒に生きるためです。だから、誰でもイエス・キリストを救い主として信じるならば、私たちは主と共に生きる者とされるのです。

 結婚して夫婦になっていたとしても、良い交わりを持てているとは限りません。親子関係はあるけれど、良い関係を築けているかというのはまた別の問題です。関係があるから、良い交わりがあるとは限らないのです。これは信仰生活においても同じです。私たちクリスチャンは神の子とされ、神様と共に生きる者とされましたが、良い交わりがあるかどうかはまた別の話です。

 今の社会の問題は、顔と顔を合わせて言葉を交わすことが少なくなってきたということです。同じように教会においても、クリスチャンが神の子とされているのに、主に向くということが出来ていない、それが今日の教会における最大の悲劇だと思います。主に向くとは、それは祈るということです。

●しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ 10:42)

 クリスチャンであるなら、一番大切にして欲しいことは、主に聴くということです。マルタは主を歓迎するために忙しく動き回っていました。勿論、主を歓迎するために仕える事、マルタがやっていた事は大切なことでした。しかし、イエス様はそのようなマルタに対して、マリアがしていた大切な事を奪わないようにと言われたのです。なぜなら、何よりも主が願っていることは、私たちが主のために何かをすることでは
なく、私たちが主の言葉に耳を傾けて聴く事だからです。

 ダビデが素晴らしかったのは、彼はいつでも主に聴く人であったからでした。ダビデがどれほど主に聴く事を大切にしていたかをよく表している物語がサムエル記に書かれています。

●その後、ダビデに次のような知らせがあった。「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています。」そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」(I サムエル 23:1-2)

 この時、ダビデはサウルから逃亡している最中でした。そんな時に、ケイラの人々が助けを求める声を聞いて、自分が助けに行くべきかを主に伺うんです。主に伺って、ケイラの人々を助けた後、ケイラの人々がダビデをサウルの手から助けてはくれないだろう事を聴いても、主から言われた通り、ケイラの人々を主に言われた通りに助けに行くんです。これほどまでに主に聴く事と、主から語られた事を実行する事を大切にしたので、彼は主の前に特別な人、主が共におられる人となったのです。彼が優れていたのは、いつも主に聴くという事を大切にしていたからです。

●すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。(ゼカリヤ 4:6)

 クリスチャンは自分の能力や才能ではなく、聖霊様である主が力であり、避け処であり、解決なのです。主と共に歩むという歩みが皆さんの人生において現実となりますように。皆さんがいつも主に向いて、主に心を向けて、主の言葉を聴いて歩む者となってください。どうぞ主に向く習慣を身につけてください。そして、主の素晴らしさを味わい知る事が出来ますように。

2017年11月9日更新

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