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「神の民」

- 2017年7月30日 -

講師:竹田 亮一 牧師
聖書箇所 エペソ1:3

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 皆さんは、この御言葉を読まれてどのように考え、また感じられたでしょうか。私は、この御言葉から全てを治めておられる主なる神様が私逹に愛と恵みを豊かに注いでおられることを覚え感謝が溢れてきます。 私は皆さんにこのような聖書の読み方をして頂けたらと思っています。

 例えば、3節〜13節からでしたら、全てをつかさどる主なる神様が溢れんばかりの恵みを惜しみなく注ぎ込んでおられるということと、御父の御心を考えます。
特に5節「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」とあります。この箇所は、主なる神様の私達に対する愛と優しい思いを御言葉に含ませて読んでもいい箇所だと思います。

 6節「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」とあります 。「私達に与えて下さった」と書かれている御言葉を「私達に充分に惜しみなく与えて下さった」として読んでもいいのではないかと思います。

 聖書をもっと理解したいと思われている方には、色々な訳を読み比べてみられるのも真意を理解する上に役立つのではないかと思います。

 次に、益についての神様の観点と人の観点の違いをお話し致します。

 初めに主なる神様と人は全き調和(シャローム)の中でエデンの園に共にいました。アダムの不従順によって罪が入り罪が入ったために死が入ってきてしまいました。アダムの不従順とは分かりやすくいうと、主なる神様を神様として認めないこと、仰ることに従おうとしないことです。

 罪が入ったことにより存在・状況・条件・環境・質に変化が起きてしまい園に住めなくなってしまったアダムは、神様がいない状況の中で生きていかなくてはならなくなりました。それは創造物全ての堕落の始まりでした。人は苦しみに合い、自由(何にも影響されず何事にも束縛されずに主の御心を充分に表すことができ主の喜ばれることができる状況のことを言います。)を失い、御心を行うことができなくなり、悪い影響を受けるようにっなってしまいました。

 イエス様の十字架の死に至るまでもの従順により主なる神様が私達をもう一度取り戻されたのは、和解により再びご自分の民を完全な調和の中に戻すためでした。私達と共にいることは主にとっては大きな喜びなのです。これが神様の観点です。

 これに対して人の観点は、罪の救い、罰からの救い、罪の結果によって起こるさまざまな苦しみからの救い、問題解決や幸福な人生を送るため、また健康が与えられるというものに向けられた益が第一になってしまいやすいものです。

 私達は、神様と和解した後でも愛していると言いながら間違いをおかしてしまい、また不従順を繰り返してしまいます。クリスチャン同士が互いに励まし合い「世の光地の塩」(マタイ5:13〜14)として心を差しのべていくには神様の愛と恵みが必要なのです。ヨハネ1:1「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」とあります。この「言葉」とはギリシャ語で「ロゴス」といい全ての基になるもので手を延ばしても届くことのない遠い存在を意味します。この言葉であるイエス様が全き従順によって購いの御業が完成してくださったのです。また私達と共にいてくださる愛と恵みと憐れみ深い御方なのです。
この事を知り理解するならば私達は主なる神様を神様として崇めることを第一にすることができるのではないでしょうか。

 マタイ28:20で「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」とおっしゃっておられますので感謝致します。

2017年8月26日更新

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