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「神の民」

- 2017年7月9日 -

講師:竹田 亮一 師
聖書箇所 Uコリント 4:1-6

「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」

 私の父親が、私が高校生のときに私がクリスチャンになるということについて家族会議を開きました。家族で話し合った中でも、私はクリスチャンになるという決意を変えなかった。するとこの話し合いの最後に私の父が、「それじゃあ、私は自分の息子は三人ではなく、最初から二人しかいなかったのだと思う他ない」と言ったんです。
この言葉を皆さんはどう思われるでしょうか。

 この話を私がアメリカで話をすると100%、「大変なところを通ったのね。ひどい事を言われて」という反応が返ってきます。私も漠然と、私は父から酷い事を言われたのかなと考えていました。しかし、ある時ハッとさせられました。あの一言は父の愛の表現であったのだという事に気がついたんです。当時の父からすれば私がクリスチャンになるということは、私が父の及びもつかない、想像もできない世界へと出て行ってしまうという事に等しい事であった。それで父はそうであるなら、「自分には最初から息子が二人しかいなかったと思わなければやりきれない」という風に語ったのだという事に気がついたのです。

 全ての人は自分の世界観を持って生きています。そしてこの世界観はその人が住んでいる環境に影響されたものです。そして、その環境は文化に影響されて存在しています。私たちが育った環境や受けた教育が私たちの価値観、考え方、世界観を作っている。そして私たちの文化的な背景を作り出しています。そのように私たちはクリスチャンであるけれど、自分が生まれ育った文化から影響を受け、文化から影響を受けた考え方、価値判断基準を持って生きているのです。

 クリスチャンになると皆、福音というものが真理であり、良いものであるという世界観を持ち、その世界観の中で生きるようになります。そうすると、クリスチャンは単純に全ての福音を信じていない人たちに対して、福音を分かち合えば人々はそれを受け入れてくれるだろうと思い込んでしまう。ところが、人は皆それぞれ異なる世界観の内に生きているので、必ずしも私たちが素晴らしい、良いものだ、真理だと思っている福音を簡単には受け入れてくれない。なぜなら、彼らの世界観の中には福音が真理であり、素晴らしいものであり、信じるに値する良いものだという価値観が無いからです。

 今年で宗教改革500周年記念ですね。500年前のヨーロッパでは人々はどのように生きていたと思いますか。中世から近代に移る時代、この時代には人々の考え方が変わり始めてきた時代です。近代の特徴は理屈の社会です。そして、絶対というものが無いと考えられるようになってきた時代でもあり。また個人主義、人間中心主義の考え方が入ってきた時代でもあります。

 プロテスタントのキリスト教はこのような背景の中で生まれてきました。カトリックや東方正教はそれ以前からあって、すべて理屈では考えません。しかし、プロテスタントはすべて理屈で考えます。だから、私たちが属しているキリスト教は理屈主義です。ところがこの世界のほとんどは理屈文化ではありません。アメリカやヨーロッパは理屈文化です。しかし、大半の国は理屈文化でも個人文化でもないのです。

 日本はどうでしょうか。日本は明治維新で近代化が進められました。近代化を通して西洋文化を取り入れたのです。また、キリスト教に関してもほとんどの宣教師は西洋、中でもアメリカから来ました。だから日本のプロテスタント教会はアメリカ型なんです。そうすると私たちの考え方はアメリカのクリスチャンの世界観に影響されているんです。

 理屈主義には限界があります。私たちが福音を語るときには、自分の理屈で福音を説明しようとします。それをやってはいけないということではありません。しかし、アメリカ的発想の理屈を持って全く違う世界観を持つ人々に福音を語っても、中々上手くいかないのではないかと思います。

●その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(II コリント 4;4)

 パウロはこの箇所でこの世の神の存在を認めていて、そしてこの世の神が福音の光を輝かせないようにしている。クリスチャンはキリストを中心とした考え方をする必要があるので、悪霊の存在を中心に物事を考えてはいけませんが、悪霊の存在を否定してしまうとそれは間違っていると思います。しかし、神がキリストの十字架を通してこの世の神に打ち勝ったのだというのは大切なことだと思います。だけれど、この世の神が福音の真実を覆い隠していることも事実です。だから、私たちの願い、祈りというのは6節です。

●「光が、やみの中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(II コリント 4:6)

 これは聖霊の働きです。聖霊が私たちの心の深いところに来て、光を輝かせてくださる。皆さんはどのようにクリスチャンになられましたか。私は、説教を聞いている中で理屈が合うから信じたのではなく、説教を聞いている中で急にハッとさせられた、それで信仰に導かれました。そのためには私たちは祈らなくてはいけない。特に、宣教には祈りが不可欠です。祈りを通して進められなければ、それはただたんに自分の世界観を説明しているにすぎない訳です。私たちが聖霊が働いてくださることを祈らないと、本当の光が差さない。

●どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。(エペソ 1:17)

 これは聖霊が私たちの心の深いところに働いていくださって、これまで見えていなかった光にハッと気がつく。それが恵みなんです。だからII コリントの中でパウロはそれをしっかりと掴まえて生きるように。光の中に歩みなさいということをパウロは何度も言います。クリスチャン生活は罪を犯さない、間違いを犯さない綺麗な清潔なものではありません。聖別というのは神に引き寄せられるという意味です。皆さんの歩みにも聖霊の働きが深くありますように。

2017年7月24日更新

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