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「キリストと共に生きる5 −キリストの愛を受けて生きる−」

- 2017年6月11日 -

講師:水野 明廣 師
聖書箇所 エペソ1:7、ローマ3:23〜25(新共同訳)

「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

 皆さんは勘違いが事故に繋がった経験はありませんか?私は過去に自分の一生が終わったんじゃないかと思うような出来事がありました。その時に私が学んだことは、赦しの重要性です。
 詩編32編はダビデの歌った有名な箇所です。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。・・・(詩編32:1〜7)」罪が赦されるということの大切さ、これがどれだけクリスチャンである私たちに深く浸透しているかが1つの課題です。罪の赦しの確信を持っている人は素晴らしい特権にあずかっています。
 聖書の中で、使徒行伝の10章にコルネリオという人が登場します。ローマの100人隊長であり、当時イスラエルを治めていた占領軍の将校の1人です。コルネリオは敬虔な人物でした。敬虔な人とは、神への信仰を非常に大事にして、普段の生活も神を恐れ敬うためにいつも神の御前で正しい者でありたいと願って語り行動する人です。コルネリオは毎日、「主よあなたがお喜びになるような人生を私は送りたい」「あなたが私を認めてくださるように」といつも主なる神を意識して心を向けて祈ることを習慣としていました。また、コルネリオはその富をいつも惜しみなく与えている人でした。彼は占領されている側のユダヤ人にも施しをしていたため、ユダヤ人からも尊敬されていました。しかし、彼には1つの課題がありました。「本当に私は神様に喜ばれ、救われて、罪赦されている人物なのか?」ということです。
 何もかもを手にした人物がルカ18章に登場しています。若くして富も地位も名誉も何もかも手にした人です。持っていないのは永遠の命、神の赦しです。欲しくてイエス様のもとに来たと書いてあります。「何をしたら私は永遠の命を得るのでしょうか?」と。今日みなさんにしっかり知っておいていただきたいのは、クリスチャン生活は“何をしたら”ということが大きなテーマではないということです。クリスチャン生活の1番大きなテーマは、“どれだけイエス様を知っているか”ということです。“どれほどイエス様に頼っているのか”ということがクリスチャン生活の1番大事なポイントです。幸いな者とは自分の能力や才能や功績を自慢できる人ではなく、主に寄り頼むその人だと書いてあります。
 イエス様はコルネリオのような素晴らしい人をご覧になって、放ってはおかれませんでした。神様は御使いを送ってペテロをその場所に遣わしました。そこでペテロは初めてユダヤ人以外の家に行き、メッセージを語ります。「イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」(使徒10:43)この時初めてコルネリオとその周囲の人々は、イエス様のおかげで罪が赦されるということを聞きました。その瞬間、彼らはみな聖霊に満たされたと書いてあります。皆さんが赦しの素晴らしさを本当に知った時、聖霊様が格別に働かれます。また、聖霊様が格別に働かれているということがわかります。コルネリオがどうしても欲しかったものは、罪の赦しでした。
 私たちは祈るとき、祈りが届くかどうか迷ったり、後ろめたい思いがどこかにある時があります。昨日あんなことをした、こんなことをしてしまったと思うからです。皆さんの中でどれだけの方が、イエス様の素晴らしい赦しを体験されているでしょうか。人の言葉ではなかなか理解できませんが、私は自分の体験によってイエス様の赦しの素晴らしさを目の当たりにしました。イエス様の赦しは癒しも与えます。そして伝道にもなります。イエス様の赦しの素晴らしさがわかるということが、1番の伝道です。その経験や体験がないと、イエス様のことを紹介しても律法的になってしまったり、伝道が辛くなってしまいます。

●「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(へブル9:12)

イエスキリストは永遠の贖いを成し遂げられたと書いてあります。ですからイエス様を救い主と信じ、イエス様の血が流されたことによって罪赦された私たちは、永遠に赦されています。

●「・・・御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Tヨハネ1:7)

クリスチャンにはよく見当違いがあります。不平を言ったとき、罪を犯したとき、教会に行かなかったとき、そんな時に私の救いや赦しは減ってしまうのではないか、失われるのではないかという間違いです。神様は永遠に贖い、赦されたのです。

●「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(へブル9:14)

 イエス様はご自分の命を捧げてくださいました。イエス様が流されたその血を受ける者は、良心さえも洗われて生ける神に仕えていくのです。私たちが愛を持って仕えてほしいために神様はこの方法をとられました。当番だから、牧師に言われたから、と嫌々教会の仕事や世の中の仕事を行うことがあってはいけないのです。全世界、全宇宙を創られた主が、命までも私に捧げてくださって愛してくださったから私は喜んで仕えよう、となるはずなのです。私たちの1つの課題は、どれだけ主に赦されているか、愛されているかが、まだ頭の中にしか入っていないことです。イエス様は、私たちも気を付けなければパリサイ人やサドカイ人のように宗教的にキリスト教をやっている人たちになってしまうと言われました。御子が命を捧げてまで赦してくださったから私は仕えよう、会社であろうと家であろうと、イエス様の前では仕えられるより仕える方が偉大だから私は仕えよう、そんなスピリットがもっともっと私たちの内に強くなったらいいなと願います。

 イエス様の流された血によって、私たちは勝利から勝利へと進むことができます。

●「兄弟たちは、子羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示録12:11)

 旧約聖書に書かれている、神様と人間の最初の契約にも血が流されています。神様との契約には血の注ぎがすべて繋がっているのです。ですからイエス様の血が流されたことによって、永遠の贖いが全うされました。私たちには、イエス様の血によって赦されているというあかしが必要なのです。イエス様が私の王です、守りです、救いです、イエス様の流された血によって私は御国の世継ぎとなりました、というあかしの言葉を宣言するとき、私たちはあらゆる責めや攻撃から勝利することができます。私たちにはあかしの言葉が必要です。これは皆さんに間違いなく大きな勝利をもたらします。信仰の告白、希望の告白を堅く保ちましょう。 

2017年6月20日更新

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