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「御霊によって生きる」

- 2017年1月8日 -

講師:水野 明廣 師
聖書箇所 ガラテヤ5:16

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

 今日のテーマは神の御霊によって生きるというテーマです。ガラテヤ書はパウロが聖霊の感動の中で後の教会でも起き得る問題・課題についてどのように対応すべきかについて書かれている手紙でもあります。今日は5:16に特に注目して行きたいとおもいます。

 イエス・キリストを救い主と信じて、聖霊によって御言葉を生きる人生がクリスチャン人生です。それは、神の祝福を受けてそれを人々に流すという人生でもあります。そのためには御霊によって生きることが必要です。クリスチャンは救われた者ですが、御霊によって歩むことが無ければ、人を躓かせたり、傷つけたり、憎んだり争ったりという歩みの中に歩み続けてしまいます。だからパウロはガラテヤ書の中で御霊によって導かれなさいと書いていますね。

 今年、クリスチャンライフには使徒行伝の御言葉が与えられていますが、使徒の働きを読んでいると、弟子たちはイエス様が天に昇られた後、イエス様に言われた通りエルサレムを離れずに祈り、聖霊を受けて、御霊に導かれて歩むということを現実に体験したことが書かれていますね。ペテロとヨハネが宮に行くために歩いていた時に、宮の入り口にいた歩けない人と出会い、その人を癒した。御霊によって導かれている人にはそういう事も出来るようですよ。私は実は、神の家族の集まる集会の中で、司会者が突然立ち上がって二つのことを示されたと言ってある問題を持った人がいるという事を私に話し始めるんです。そして集会が始まった時に3人の人が私の所に来て2人の人がその場で癒され、もう一人の人は、「実はこんな癒しを体験した」と証を話されたことがあります。言っておきますが、私にはそんな力はありません。私の所に癒しのために祈って欲しいと来て祈っても何も起きないこともあります。それは、主は私たちの思いと願いを超えて働かれる方だからです。使徒の働きでイエス様の弟子たちは聖霊を受けた後、大きなリバイバルを体験しますね。3千人が救われ、その後には5千人が救われました。しかし、その事のゆえに今度は迫害が始まります。しかし、弟子たちは聖霊に導かれていましたから、迫害されて追い出されても、不平を言わず、むしろ福音を語りながら出て行った事が書かれています。そして聖霊に導かれたクリスチャンたちはエルサレムから追い出されて、今度はサマリヤへと出て行ってたくさんの人々を救いに導いたのです。聖霊に導かれる、この事が私達にとって非常に大切なことです。

 私たちが御霊に導かれるために守るべき大切なことについてお話ししたいと思います。私たちの人生においてもっと聖霊様の影響力が強くなること、このことがクリスチャン生活にとって大切です。また、御霊に導かれる人の特徴はいつも前向きであるということです。パウロもピリピ3:13で「後ろのものを忘れて前に向かって進んでいる」と言っていますね。アインシュタインについて書いてある本の中で彼が面白いことを言っているの読みました。力学的に言って、存在するものがずっと同じ状態で存在し続けることはないそうです。前進するか、後退するかのどちらかしか無いのだそうです。それを読んでいて人も同じだと思いました。私たちも同じ状況に留まり続ける事は有り得ません。だから、今年はみなさんと一緒に前向きに行きたいと願っています。

 御霊に導かれるために一番大切なことは、いつも聖さを追い求めることです。

●すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。(ヘブル 12:14)

 毎日、もっと聖さと誠実さを追い求めていくことが大切です。聖さと忠実である事は一つです。イエス様は聖い方であり、また忠実な方ですね。

●主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。(エレミヤ 31:3)

 誠実とは対人関係の中で必要なものです。そして聖さとは自分自身の中に必要なものです。パウロは、II コリント 7:1の中で、神に委ねられているものが多くあるので、自分を汚すものを全部捨て、自分を清めて欲しいと書いています。この自分を聖めるとは、私たちが自分の意思で積極的に聖い方を選ぶという事と同時に、聖霊様が私たちの中で働いて、それを実行させてくださるという二つの意味があります。しかし、自分が聖い方を選ばないのに、聖霊様だけが働いて、自分を聖めるということは有り得ません。

●ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。(II テモテ 2:21)

 聖めるという事を行動に移すなら、自分を汚すもの、誘惑するものから離れるという行動をとらなくてはいけません。箴言の7章にはこの事を端的に戒める言葉があります。

●わきまえのない者たちを見ていると、若者のうちに、思慮に欠けたひとりの若い者のいるのを認めた。彼は女の家への曲がりかどに近い通りを過ぎ行き、女の家のほうに歩いて行った。(箴言 7:7-8)

 女の人が悪いという話ではありませんよ。愚かな若者が様々な理由をつけて誘惑の方向、汚れの方向に進んでいってしまうという事が書かれています。聖さを追い求めるためには、自分を汚し、自分を壊すような方を選びとってはいけないのです。私たちは、自分が何かを選ぶときに、それが自分にとって益をもたらすのか、それとも害をもたらすのかをしっかり考えて、良い方を選ぶ必要があります。それは、毎日の食事でもそうですね。自分の健康を害するものを食べるのか、それとも健康に良いものを食べるのかという選択は皆さんの健康状態を大きく左右しますよね。聖さもそれと同じです。愚かな若者は自分の弱さが分かっているのに、自分から罠の方に歩いて行って、罠に掛かっている。これは別に男性だけのことではないですね。私たちは自分から、意識的に離れるべきものから離れるという事を選ぶ必要があります。

●こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(ヘブル 12:1)

 聖めるために大切なもう一つのことは、まとわりつく罪をいつも捨て去ることです。私たちは生きている中で、様々なまとわりつく罪がくっついてくる事を経験します。皆さんが良い恵みを自分のものにしている最中であっても、皆さんにまとわりつく罪がくっついてきますよ。聖霊様は皆さんがもっと聖められるために、汚れから離れる事を願っておられます。皆さんがそれを願わないのに、聖霊様が勝手にそれをすることはないのです。だから私たちは自分の内にある、ちょっとした高ぶりであったり、憎しみや苦々しさを手放していく方を選ぶ事が必要なのです。それが御霊に導かれる歩みにおいて大切な事です。どうぞ、みなさんの実際の歩みの中でもっともっと聖めを追い求め、誠実の限りを尽くして聖霊様の助けを期待して歩んで欲しいと願います。

2017年1月16日更新

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