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恵みの雨 2006年8月号より

特集:あなたの隣人を愛さなければ・・・
 「祈りの祭典」(Part2)

イエス様はこの地上におられた時、多くの驚くべきみわざをなさいました。しかし何一つとして、愛によらないものはありませんでした。
 世界中でどんなに多くの奇跡が起きたとしても、また、日本にどんなにすばらしいリバイバルが訪れたとしても、たった一人の隣人を愛せないとしたら、すべてはむなしいのです。

 「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の償うちもありません」(Tコリント13章2節)

 

キリストが愛された愛に生きる

 水野明廣 牧師

 

(二〇〇六年四月二十一日、「祈りの祭典」で語られたメッセージをまとめたもの)

喜んでいないと……
 「互いに愛し合いましょう」。これは私の生涯のメッセージです。
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネほ章9〜12節)
 私は喜びにあふれた人生が好きです。私が喜んでいるのは、愛の中にいる時です。愛されていると感じる時も、人を愛している時も、喜んでいます。喜びに満たされているクリスチャンは本物です。私たちの神様は良いお父様ですから、子どもに喜んでいてほしいのです。
 私が尊敬している先生が、長い間入院しておられました。天に召される直前、それとは知らずに病室を訪問しました。ちょうどその時に意識が戻った先生は、私を見つめ、「水野先生、私は今、天国に行きかけたのです」とおっしゃいました。戦前から苦労を重ねて牧会し、戦争中は信仰を捨てるよう迫られ、つめを全部はがされてしまった方です。私はその戦いについて、何度も問いてきました。
 先生は言われました。「私は天国の門の前まで行ったのですが、入れませんでした。だれかが引っ張るのです。横を見ると、喜びのあまり、躍りながら入っていく人がいます。『主よ、どうして私は入れないのですか?』と聞くと、主は言われました。『おまえは喜んでいないからだ』。その途端、水野先生が病室に入ってきたのです。先生、牧師は喜んで仕えないといけませんよ。喜んでいないと、天国に入り損ないます。『戻ってやり直しなさい』と言われますから」。それがその先生の遺言でした。

この人を愛しているだろうか?
 私は喜んでいたいのです。ところが、よく沈みます。先日もあるご婦人が、ご主人と共に私のところに来られました。長い問、教会に行っておられる方です。「信じるつてどういうことですか」と、泣きながら質問されるのです。「あなたは二十年以上も教会に行っているのに、わからないのですか?」。私は、聖書のことばをたくさん彼女に差し上げました。それでも彼女は「わからない」と言って泣くのです。頭ではわかるけれど、心ではわからないのです。それは私の責任ではありません、と言いたかったのですが、牧師として神様への信頼、信仰ということを教えられないとは、と惨めな気持ちになりました。私は自分が情けなくなって泣きました。「主よ、信じることが説明できません。主よ、助けてください」。私は突然、この婦人を本当に愛しているのだろうか、と思いました。
 イエス様が愛されたように、私は彼女を愛しているだろうか。私は思わず悔い改めの祈りをしました。「私はこの人を、あなたのようには愛していません。あなたしか、この渇いた心を満たせません。主よ、どうぞこの人を助けてください。父親も母親も知らないで育ったのです。主よ、助けてください」。その時、聖霊様が働いてくださいました。私が泣いていると、彼女が突然、喜びの声をげました。「信じるということが、初めてわかりました!」。彼女は私の説明でわかったのではありません。イエス様が言われた愛で私たちが愛することができるなら、リバイバルは来るのです。

愛は欠点を見ない
 「主よ、あなたを愛します」と私たちはよく言います。でも隣人については、つぶやくことはないでしょうか。私にはよくあります。イエス様は私の一番の隣人として、私の妻を下さいました。そして、「わたしが愛するように、妻を愛するか」と聞かれます。また、教会の信徒に対しても、一緒に働く牧師に対しても、「わたしが愛するように、おまえは彼らを愛しているか?」とイエス様は言われます。「わたしは彼らを愛している。愛は多くの罪を覆い、愛は人のした悪を思わない」。でも、私は人の欠点があちこちに見え、長所よりも欠点に日が行きます。そして同時に、「主よ、あなたが私の欠点をこんなふうにご覧になったら、私は仕事ができません。イエス様、私の欠点を見ないでください」とも祈ります。私の妻はパソコンに向かうのが大好きで、朝起きると、聖書を開くより先にパソコンを開きます。画面には、孫の顔が映るようになっています。いつも新しい映像が息子や娘夫婦から送られてきます。この孫たちは私たちに何もしてくれないのですが、妻も私も夢中で見ています。実は祈りの中で、天のお父様も私に
対して同じ見方をしてくださっている、と教えられました。「わたしの息子、明廣は、以前は人の悪口ばかり言っていたけれど、最近は、少しは人のために祈るようになったね」と。
 ニューヨークに行った時、ジム・シンパラ先生に初めてお会いしました。ニューヨークの大変大きな教会の牧師です。その先生に、「今晩、あなたがお話しください」と言われたので、私は驚いてしまいました。そこで「先生の教会の良い点は何ですか」と聞くと、「人の悪口や陰口を言わないことです」とおっしゃいました。私はほっとしました。私が失敗しても悪口を言わず、受け入れてくれる教会だからです。それで気持ちが楽になりました。
 愛は人のした悪を思いません。だから罪を犯してもいい、と言っているのではありません。愛はいつも欠点や罪を覆います。あなたがどんなことをしてしまっても、相手があなたの悪口を言わないなら、良い関係を築くことができるでしょう。イエス様が皆さんの悪口をおっしゃっていることを想像できますか。それどころか、イエス様は私たちを喜んでくださり、一人ひとりを抱き締めて、褒めてくださる方です。
 互いに愛し合うことが、私たちの一番の務めです。夫婦が、親子が、クリスチャン同士が愛し合う。よその教会の悪口を言わない。自分の教会の人たちの悪口も言わない。コリント第一の手紙八章一節には、「愛は人の徳を建てます」とあります。徳を建てるとは、相手の価値を増し加えるという意味です。
 このような聖会で、私たちは泣き、体が震えるほど感動します。それはうれしいことです。でも、どんなに感動しても、家に帰ってあなたの家族を愛せなかったら、意味がありません。どんなにすばらしい聖霊の力を頂いても、あなたの隣人を愛せなければ、意味がありません。私の経験では、聖霊の力が最も現れるのは、人を愛する時です。

「父よ、彼らをお赦しください」
 私はある時、韓国の教会に招かれました。何千人という会衆の前で、みことばを語ることになっていました。講壇に上がり、「私たちは愛し合いましょう」と言おうとしたのですが、ひと言も言わないうちに、驚くべき幻を見てしまったのです。日本兵の恥ずべき行為の数々が、目の前に絵のように描き出されたのです。ことばが出ませんでした。私は数千人の会衆の前で倒れてしまいました。そして、主がどれだけ韓国の人を愛しておられるかを示され、講壇の上で泣きました。「私の先祖の罪を赦してください。主よ、私の罪を赦してください」。通訳の先生が私を起こそうとするのですが、起き上がれず、ただ「赦してください」としか言えませんでした。
 愛するとは、相手のことを本当に受け入れることです。イエス様はすべての人の心の痛み、悲しみをご存じです。ほとんどの人には、罪を犯してしまう、悲しい苦しい理由があるのです。イエス様だけがすべてをご存じです。イエス様は絶対に責めておられません。「父よ、彼らをお赦しください。わたしがそのために死にます。わたしは彼らを愛しています。どうぞ彼らを受け入れてください」。そんな、イエス様と同じ祈りがここから始まったら、リバイバルは来ます!皆さんの実生活が主の愛で満たされますよう、お祈りします。私は今も、毎日が献身です。「主よ、あなたが助けてくださらなければ、私は愛のかけらもない人問です」。
 同じような経験をフィリピンでもいたしました。フィリピンの牧師たちに語ろうとした時、フィリピンの人々が大勢牢獄に入れられている光景が、幻のうちに見えたのです。その人たちが骨、死んでいくのです。私は語れなくなりました。隣にいるフィリピンの先生のことを、私はイエス様と同じように愛しているのだろうか、と問われました。私はその先生の手を握って言いました。「あなたをイエス様のように愛したい。でも、その前に日本人とこの私を赦してください」。その先生はそれまで私にひと言も言わな
かったことを、私を抱き寄せながら言いました。「私の父は日本人に殺されました」と。私の心は痛みました。「主よ、助けてください。あなたが愛するようにもっとフィリピンの方々を愛したい。私にはあなたの助けが必要です」。

主のように愛したい
 互いに愛し合う、とことばで言うのは簡単ですが、その愛に生きるには、聖霊様の助けが毎日必要です。日本人はもっと、日本にいる外国の方々を含め、すべての隣人と心の底から愛し合っていかなければいけません。「喜びに満たされる」というみことばをはさんで、両側に、互いに愛し合うためのみことばがあります。互いに愛し合う、その真ん中に喜びが満ちてくるのです。大切なのは、神様に愛され、喜びに満たされること、そしてもう一つ、互いに愛し合うことです。
 キリストが愛された愛で生きることができますように。主に感謝すればするほど、主のように愛したい、と願います。私の周りからこの愛が流れなければ、意味がありません。私はイエス様に頼ります。私が消えていき、主がもっと現れてくださいますように。私たちすべてを小さなキリストにしたくて、聖霊様が働いておられます。愛することで、私たちは解放されます。いやされます。イエス様のように、愛していきましょう。