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OLIVE 2006 DEC. (オリーブ 2006年12月号) より

特集:祝福の贈り物
     自分をのろう者を祝福するとき

 

 祝福の贈り物

    水野明廣 牧師

◆クリスチャン人生を劇的に変えるもの

 主イエス・キリストの救いは、何と素晴しい贈り物でしょう。その救いの贈り物、キリストの流された血のおかげで義と認められ、キリストの犠牲のおかげで神の怒りから救われました。罪ののろいからも解放され、主イエスを救い 主と信じる人は今や誰でも、父なる神の祝福のもとに生活できるのです。

 本来、人は誰でも愛されるために生まれ、神の祝福を相続できるはずでした。しかし、罪のせいで祝福を失い、災いやのろい、滅亡を受ける羽目になりました。けれども聖書で約束された通り、救い主、主イエス・キリストの払われた命の代価によって、祝福の贈り物を頂けるようになったのです。何と幸いなことでしょう!

 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:89)

 「そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。」(ガラテヤ3:9)

 「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから蹟い出してくださいました。!!このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人(わたしたち)に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:13-14)

 罪赦されて神の子とされることだけでも言葉を超えた喜びです。さらにクリスチャンになるということは、主なる神の豊かな祝福を頂き、その祝福を流し出すための生活へと移し変えられることでもあります。今や私たちクリスチャンは、この世界に対しては神からの祝福の贈り物となって日々を過ごし、主のうるわしさと素晴しいみことばを宣べ伝えるために生かされているのです。

 けれども、現実のこの世界には今も悪がはびこり、不正が横行し、善を行って苦しめられることがまかり通っています。しかも不当な侮辱と差別、ひどい仕打ちに遭うことさえあります。とても残念なことですが、クリスチャンになれば、このような問題や苦しみに遭わないどころか、逆にもっとひどくなることさえあります・・・。

 私たちを愛し祝福しておられる主イエス・キリストのみことばでは、「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:28)と教えられました。また、主イエスの使徒パウロは、ローマ人への手紙12章14節で、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。」と励ましています。そして使徒ペテロも、ペテロの手紙第T3章9節の中で、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」と、クリスチャンになった目的を伝えています。

 特に、主がペテロを通して語られた、「悪に報いず、侮辱に報いず、祝福を与えなさい。」というこの教えは、私のクリスチャン人生を劇的に変えるものになりました。このみことばにより、せっかく主の祝福の道に入れられながら、その経験がほとんどなかった自分の問題に気付かされ、悔い改めて祝福に立ち返らせていただける恵みにあずかりました。

 このことから、どんなことがあっても徹底して祝福の信仰に生きるクリスチャン生活を過ごせることは、何と幸いなのかを知らされました。

◆赦し、祝福することの恵み

 私は、主イエスの十字架のおかげで、のろいから祝福のもとに移し変えていただきました。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)。しかし、私たちがキリストの祝福を受けても、キリストの豊かな命が流れないようにと、盗んだり殺したり滅ぼしたりする勢力も働いています。(ヨハネ10:10参照)

 苦労が多いわりに実りが少ない自分の働きを嘆き、主の御前に出てハンガーストライキ(断食祈梼と言えば聞こえはいいのですが)をして何日もうなだれた日々を過ごしていたある日のことです。あわれみ深い主が、聖霊により、私がどんなに多くの人々に対して心の中で腹を立て、苦々しい思いをもっていたのかを示してくださいました。もちろん私にも、そのような心をもつ理由はいるいるありました。

 数年前のあるとき、心当たりもない理由で私を非難し中傷する手紙が、地域の多くの人々に配られて苦しんだことがありました。また、ひどい陰口をたたかれたことや、牧師として、助けてあげたい一心で仕事を求めていた人の保証人になったのに、その後、その人の犯した失敗のために、気の遠くなるほどの負債を一方的に負わせられたこともありました。

 心の中でそれらのことを次々と思い出し、祝福の思いよりも復讐を期待し、主がその人々を裁かれることを願う自分がいることに気付かされました。その相手に悪いことが起こることを期待し、私に詫びに来ることを密かに期待していたのです。

 しかし、ただ主イエスに感謝します。私のうちにおられる聖霊がどんなに悲しんでおられるのか、そのハンガーストライキの只中で教えてくださいました。主がこの私を無条件に愛し赦してくださっていることを覚えさせてくださいました。そこから、涙々の中、思い出せる限りの人々を赦すことと、祝福するための祈りをすることができる恵みにあずかりました。そんな人々を祝福することは悪いこ)となので、正義が果たされない・・・と、自分本位に主への反抗も繰り返しましたが、とうとう「○○さんを祝福してあげてください」と祈り始めることができました。

 その日からすぐにはできない場合もありましたが、幸いなことに、聖霊の助けで徐々にできるようになっていきました。その日を境に、どれほど多くの祝福を今までに受けてきたか、とてもこの紙面では語り尽くせません。また、近年になってから、信仰の父の直接の子孫であるユダヤ人を祝福する恵みを頂いてからは、まさにアブラハムにあったような「主が共におられる現実」の驚くべき恵みを受けております。

 聖書によれば、確かに主は私たちクリスチャンと共におられます。しかし、人々が「あなたには主がついておられますね」と、お世辞ではなく言ってくださる祝福は、格別の特権であり喜びです。主が祝福を願っておられる働きや人々を、まず祝福する支援に加われるなら、そのような人こそ主から「幸いな人よ」と言われるのです。

 信仰の戦いのために、どうしても祝福を経験してほしいと思います。どんなにひどいことになっても、どんなに苦しい目に遭わせられても、相手に赦しを与えるにとどまらないでください。聖霊に助けられ、相手を祝福する祈りまでもできるようにと願います。加えて、祝福の礎である人々を祝福し続けられることをも願いながら・・・。